「山形藝術界隈前史」第二回:大槌秀樹

山形藝術界隈メンバーによる「山形藝術界隈前史」の連載第二回は、大槌秀樹による前史です。(聞き手・構成:halken LLP)

「山形藝術界隈前史」初回:後藤拓朗
「山形藝術界隈前史」第二回:大槌秀樹
「山形藝術界隈前史」第三回:根本裕子
「山形藝術界隈前史」第四回:久松知子
「山形藝術界隈前史」第五回:是恒さくら
「山形藝術界隈前史」第六回:白丸たくト

──大槌さんは東北芸術工科大学(以下:芸工大)の大学院を修了されていますが、大学院を出た後の活動からお聞かせください。

大学院を修了した私は、どこかに行くアテもなく、どうしようかと彷徨っていました。そんな時、芸工大のキュレーターである宮本武典さんから声をかけていただき、「ミサワクラス」(以下:ミサワ)の設立に携わり、そしてそのままミサワでの生活を開始しました。ミサワは山形市の中心部にある七日町の廃旅館をリノベーションしたシェアアパートで、様々な人が共同生活し何かを生み出していく場として設立されたものです。この設立のメンバーの中には、後に山形藝術界隈(以下:界隈)に参加する陶芸家の根本裕子さんもいました。
ミサワ設立から2年間ほどは、芸工大主催(宮本武典キュレーション)による展覧会やイベントが定期的に開催されていました。しかし、その代償としてその間、個々の作家としてのキャリアは見込めない現状であったともいえます。

──とはいえ、ミサワでの活動は華々しく映ったのではないでしょうか。当時私も芸工大の活動を見聞きする機会がある度に、芸工大も面白いことをするようになったなぁと思っていました。

そんな中、震災後に状況はがらりと大きく変わりました。芸工大が地域連携や地域貢献活動に大きく舵を切ったのです。ミサワは芸工大との関わりが無くなりました。私たち(当時のミサワ作家たち)は、今まで芸工大に甘えていた状況を猛省し、自主的に活動を開始していったのでした。「私達は語る言葉をもたない」と題するミサワ全体(各作家の生活している部屋、共同の場)を使った展覧会を3年ほど開催したりもしました。それなりに見に来てくれる方もいらっしゃいましたが、この東北の偏狭さと外部との繋がりは作れずじまいで、ミサワの作家たちは徐々に疲弊していきました。芸工大一強のこの場において、「それ以外」となった私たちは無力感に陥ったのです。

──震災後のミサワは、そんな状況だったのですね…。

2014年でしょうか、私はとうとう一人になってしまいました。ミサワにいた作家たちは、それぞれ他の場所に拠点を移していったのです。残された私は、それはもう絶望的でした。そんな中、救いのように京都での個展の機会をもらいました。この展示には、後に界隈に参加する音楽家・白丸たくトさんが観に来てくれました。
翌年の2015年には、ミサワに新しい入居者が来ました。出口惣一さんといって関西出身の方です。大阪芸術大学で土田ヒロミさんの下で写真を学んでいただけあって、一風変わった人でした。唐突に「部屋でギャラリー始めたいねん」と言ってミサワに来たんです。彼のこのひと言に、腐りかけていた活動する事への活力が湧きあがり、感動したのを覚えています。

──そこからMOLE GALLERYの活動に繋がっていくのですね。

私と出口さんと建築を専門とするミサワの入居者(工藤裕太さん)との3人でもう一度、このミサワでの作家活動を改めて開始することにしたのです。最初の1年間はリハビリと称して、観客が来ようが来まいが、定期的に展覧会を開催し好き放題活動しました。3人の各部屋は、「AAOO Public Space」「空地画廊」「MOLE GALLERY」とそれぞれネーミングされ、廃旅館の共同生活の場の中に3つのアートスペースが生まれたのです。そしてこの展覧会には、後に界隈に参加する孤独な美術家・後藤拓朗さんが観に来てくれました。彼とはすぐに意気投合しました。

──大槌さんの界隈への輪郭線はここに起点がある感じですね。その後どう広がりをみせるのでしょう?

さらに翌年の2016年は私にとって大きく動いた年でした。2月にミサワでの3ギャラリー同時開催展「Throw into Space」を実施しました。その中の私のギャラリー「MOLE GALLERY」では、「MOLE 革命」と題した入れ子状態のグループ展を行ないました。この「MOLE 革命」展には、根本裕子さん・後藤拓朗さんも参加し、「東北画は可能か?」(以下:東北画)の三瀬夏之介さんや宮本武典さんも観にこられ、芸工大との繋がりが再び始まっていきました。
この時期には京都で知り合った、音楽家・白丸たくトさんがミサワに引っ越してきます。それと入れ替わりで写真家の出口さんが諸事情により関西へ戻ってしまうという寂しい出来事もありましたが…。

──白丸・大槌・後藤という3役者が揃い、いよいよ山形ビエンナーレ(以下:ビエンナーレ)に突入していくという感じですね。

9月にビエンナーレが開催され、私と後藤さん白丸さん、そして根本さんも各場面で召還されていきました。ビエンナーレへの参加については、後藤さんと意見が分かれ議論を重ねましたが、結果としてはみんなが参加することとなりました。この狭い山形での美術勢力図として、芸工大主導の東北画、ビエンナーレの2つが大きな力を持ち、それ以外の作家は厳しい状況下におかれている事に対して、市民による第3極を打ち立てることへの構想もありました。
ビエンナーレ期間中には、「アートの市・芸術界隈」(以下:市プロジェクト)が三瀬夏之介さんのディレクションにより始まりました。これは、山形のアートコレクティブを一同に集め、市(=展示即売)として展開する試みです。三瀬さんの東北画をはじめ、halken LLP(キュレーションチーム)、森の月かげ(山形の共同アトリエ)、SANZOKU(根本裕子主宰の陶器ブランド)等のブースが立ち上がり、その中のひとつとしてミサワも参加しました。私と後藤さん白丸さんによるブースです。

──私も出展者として参加させていただきましたが、ミサワのブースはひときわ異彩を放っていたのを覚えています。

ミサワのブースは他のブースとは違い、「アートを売る」という行為からどれだけ離れていけるのかの実践でした。ブースの上に単管パイプでやぐらを組み、「展望場」と称したイベントスペース──市を一望できる場で、白丸さんのライブや、トークショーが行われた──や、ぼろぼろの段ボールにより仮設されたギャラリー「MOLE GALLERY」を出現させ──後藤さんによる、未来の私とMOLE GALLERYの展開図でした──、他のブースとは異なった機能を持たせていきました。後に界隈に参加する隣のブースにいた美術家・久松知子さんや、halken LLPが僕らに興味を持ってくれました。美術家・是恒さくらさんともここで知りあい、後に界隈にコミットすることとなります。その後、久松さんはミサワに入居します。

──その後、「山形藝術界隈」が誕生ということですね。

はい。ビエンナーレの市プロジェクトで出会った私たちは、「山形藝術界隈展」と称し第一回目の展覧会をミサワクラスで開催します。ここから、〇二(山形・白鷹町文化交流センター)、〇三(東京・新宿伊勢丹)、〇四(山形・鶴岡アートフォーラム)と各地で展覧会を開催しました。
そして、2018年にはアーティスト・有馬かおるさんとの出会いがあり、今日に至るという感じです。

──最後に「年間芸術界隈展」での大槌さんのビジョンをお聞かせください。

昨今話題になっている〈コレクティブ〉というキーワードですが、界隈ももちろんその位置づけに入ってくることは十分に想像できますし、事実そう見られているとも感じています。ただ、界隈のメンバーは、それに対してさほど興味はないというのも事実です。もちろん、集団としての活動の結果、みんなに認知される事はとても嬉しいし、そうなっていきたいですし、そういうモチベーションはとても重要だと思います。でもそんなことよりも、他に媚びる事もなく、制作での必然性や遊びを重視し、表現への深い動機を求めていきたいですね。コレクティブとして均質化していくのではなく…。
現在開催されている「山形藝術界隈展〇五/〇五・五」は、界隈の紹介も兼ねたグループ展示として位置づけられていますが、その後続いていくそれぞれの企画展のほうが、集団としての界隈をひも解くうえではとても重要になってくる気がしています。今後の展示は作家が1~3名の個人企画的なスタイルとなりますが、これはそれぞれのミクロな「山形藝術界隈」を表出していくといえるでしょう。このミクロな界隈こそが私たちの核であり、それでいて他者との類似性/差異性/発展性を考えざるを得ない側面を持っています。一年後、メンバーがそれぞれどんなミクロな界隈を率いて、「山形藝術界隈」として表出するのかがとても楽しみです。

──ありがとうございました。

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