「山形藝術界隈前史」初回:後藤拓朗

「山形藝術界隈展〇五・五」の開催にあわせて、山形藝術界隈メンバーによる「山形藝術界隈前史」の連載を開始します。初回は、後藤拓朗による前史です。(聞き手・構成:halken LLP)

「山形藝術界隈前史」初回:後藤拓朗
「山形藝術界隈前史」第二回:大槌秀樹
「山形藝術界隈前史」第三回:根本裕子
「山形藝術界隈前史」第四回:久松知子
「山形藝術界隈前史」第五回:是恒さくら

──まずは後藤さんからの視点で「山形藝術界隈」(以下:藝術界隈)を紹介いただけますか。

それぞれ独立した活動を行う出自もバラバラな作家たちが、一緒に展示活動をしている集団という感じでしょうか。それぞれに独立しつつも、お互いに影響を受けたり与えたりしながら、時には積極的に介入し誰の作品なのか判らないということもありつつ、展示空間もごちゃごちゃ入り乱れたり…。そういう関係性を楽しみながら活動しています。
内輪ノリっぽいことも否定せず、互助会的であることも否定せず、集団の活動理念が存在しないことも否定せず、ノリの合う仲間と楽しく活動しています。

──アーティストのグループというと何らかの理念なりマニフェストの元で活動するのが一般的かと思いますが、そういうノリではないのですね。

参加する作家たちがそれぞれの理念や思いを持って参加してはいるでしょうけど、それを他の作家に強要したりはしないですね。展示への参加も実は強制していません。基本となるメンバーは存在しながらも参加者は可変的です。簡単にいうと、これといった後ろ盾もなく自己資金を出し合いながら活動している一市民の芸術運動体という感じでしょうか。

──では本題に移って、後藤さんが藝術界隈に参加するまでの経緯を詳しく聞かせてもらえますでしょうか。後藤さんは山形出身で東北芸術工科大学(以下:芸工大)を卒業されてますが、まずはその辺りから伺いたいです。

私は2005年に芸工大を卒業してから、そのまま地元に残り少しずつ発表活動しながら生活していました。ちょうど当時の芸工大は変革期で、宮島達男さんが副学長に着任し、中山ダイスケさんも教授として招聘されるなど、それまでにはなかった現代美術への萌芽がありました。私はその頃に芸工大に着任したキュレーター(宮本武典さん)や、同世代の作家たち──ここにはその後、藝術界隈に参加する大槌秀樹さんや根本裕子さんもいました──と関わりながら、現代美術未開の地である山形で、どのような表現が可能なのかを模索していたという感じです。
また2008年には、市内の旧旅館をリノベーションしたシェアアパート「ミサワクラス」(以下:ミサワ)が出来ました。そこには建築家やデザイナー、美術家など十数名が暮らし、よなよなイベントや展示などが盛んに行われていました。私は住人ではありませんでしたが、展示に参加することが多々ありました。それらは主に、宮本武典さんのディレクションによる芸工大主催の企画イベントなり展覧会でした。

──宮本武典さんは今では山形ビエンナーレのプログラムディレクターとして知られた存在ですが、ミサワの企画運営にも携わっていたのですね。

宮本さんが手掛けるそれらの企画は、地域に眠っているモノやヒトといった資源を掘り起こしながら、土地の歴史や民俗学と接続しつつ、町のいたるところで同時展開したり鑑賞者を巻き込んだりするような、実験的かつ完成度の高いものでした。そのような現代美術未開の地ならではの冒険的な試みはとても刺激的で、私達の記憶に強烈に染み付いています。
ちなみに山形で芸術活動をしていると、もれなく「芸工大の人?」と聞かれます。そのくらい、いまや県民にとって美術・芸術=芸工大のイメージは定着したものになっていますが、その礎を築いた一人が宮本さんであることは間違いないでしょうね。

──ミサワの活動はその後どのように展開していったのでしょうか?

2011年3月の震災をきっかけにして、それまで現代美術の実験的な試みとして展開してきた大学主催の活動は終息し、地域社会との連携や地域貢献活動といった方向にシフトしていきました。ミサワも芸工大の手から離れていきました。それにより私も活動の場を失っていきました。大学に依存して作家ぶっていたということが明らかになり、制作にも熱が入らないまま、それから1、2年はくすぶった生活をしていました。

──震災をきっかけにして制作から離れてしまったのですね…。

震災後ろくに制作もしていなかったのですが、2012年に大量に作品が必要となるオファーがあり、それをきっかけに活動を再開しました。2013年には現在も借りている廃校利用の作業場を展示室として、「オープンスタジオ」と称した展覧会を開催することにしました。SNSでわずかに広報しただけでしたが、たくさんの方々に見ていただき、素晴らしいレビューもたくさん頂戴するなど、大変な成果でした。それ以降、そのオープンスタジオは現在まで毎年開催しています。
一方、芸工大では三瀬夏之介さん・鴻崎正武さんの「東北画は可能か?(2009年-)」(以下:東北画)と、宮本さんの「山形ビエンナーレ(2014年-)」(以下:ビエンナーレ)というプロジェクトが始まりました。以降、山形のアートシーンはこの芸工大主導の二大プロジェクトを主として展開することになります。私はそのどちらにも関わることも無く、オファーもなく、周囲の輝きを横目にグジュグジュに腐りながら、ウツウツに卑屈になりながら、ただひたすらオープンスタジオを開催していました。そんな中、2015年にSNSでミサワの活動が目に入ってきました。

──ミサワでどういう動きがあったのでしょう?

新しい写真家の住人(出口惣一さん)と、建築家の住人(工藤裕太さん)と、大槌秀樹さんの3人が、それぞれの部屋をギャラリーとしてオープンしたという話題でした。そこで見た大槌作品の良さといったら! 拡声器を持ってハアハアと吐息を無人の夜の街に響かせながら走るパフォーマンス映像、太平洋に向かって岩場でギターを掻き鳴らす映像、エモーショナルで感動したのを覚えています。
その展示の期間、朝までお話をするイベントがあり、そこで色々なことをみなさんと話しました。僕も一人で自分の作業場をギャラリー(オープンスタジオ)にしてたわけだから、山形で同じようなことをしてる奴らがいるということに興奮しました。それがきかっけで大槌さんのギャラリー(MOLE GALLERY)での展示に誘われるようになり、ミサワの住人たちとの交流が復活していったという感じです。

──その日を境にして、山形で心強い同士を得たという感じでしょうか?

その日以降、すごく頭が冴えて良いアイデアが浮かびました。とにかく、オファーを待って卑屈に過ごすのは終わりにしなければならない。もう勝手にやりたいようにやろうと。自分たちの理念を打ち立てて、自立独立した活動を展開しよう! その理念はこうです。山形の芸術文化は、東北画とビエンナーレに支配されている。県外から見たら余計に、その2つ以外は何も存在しないように見えるだろうと。それだけはまかりならん! 単なる異国情緒で東北を食い物にしている東北画と、価値観が共有できる仲間たちで幸せに暮らすユートピア思想、その実山形ゲーテッドコミュニティ化計画ともいえるビエンナーレは徹底的に批判し、日本の東北の山形という辺鄙な地方都市で暮らす僕らの生活と制作の、飾ることも美化することもない本当の姿を示していこう…と。

──ずいぶんと強烈なマニフェストですが…。

しかし、そのプランは仲間からは結局反故にされてしまいました。実は大槌さんがビエンナーレに誘われており、それは自身の活動の成果であると。そして内部から戦うことにする、ということでした。僕は本当に失望し、しょうがない、一人でそのプランを実現しようか…、なんて考えながら過ごすハメとなりました。
後の2016年2月、MOLE GALLERYでの「MOLE革命」展が迫っていました。失望しながらも、約束した展示には参加しなければならない訳です。僕は東北画とビエンナーレとの戦いの兵器として描き溜めていた渾身の絵画群をまとめて大放出しました。それは本当に革命的に、来場者に高く評価されました。
その夜は兵庫からミサワに移住してきたばかりの白丸たくトさんの部屋で、そこにいたみんなでめちゃくちゃミュージックセッションをして大はしゃぎでした。僕はずっと一人で活動してきたので、初めて仲間というものが出来た瞬間でした。それまでの卑屈さはすっかり浄化され、ただただ喜びの中にありました。

──そこから、白丸・大槌・後藤のセッションが始まるという感じですね。

その後、白丸・大槌・後藤の3人でミサワでの「night voice」展があり、そのメンバーでビエンナーレでのプロジェクト「アートの市・芸術界隈」(以下:市プロジェクト)に参加することになりました。結局のところ僕も内部から戦いを挑むトロイの木馬大作戦に打って出たということです。市プロジェクトは、三瀬夏之介さんがディレクターとして参画し、山形で活動するコレクティブやチームなどが、それぞれのブースで展示即売(=市)をするというものでした。
トロイ大作戦を決行するという硬い意志に満たされていた僕は、このクラフト市崩れみたいな甘ったるい雰囲気をなんとかしなければいけない! という使命感に燃えていました。大槌さんがこしらえた単管パイプの特製ステージの下に、路上生活者のダンボール小屋を模した、かつ内壁を白く塗装しホワイトキューブにしたギャラリー「MOLE GALLERY」を作り作品展示を行なっていました。そんな活動を面白がってか、隣のブースにいた久松知子さんが我々の特製ステージでラジオをやりだし、その後ミサワに移住することになりました。

──ようやく藝術界隈への輪郭が見えてきました。

そうして集った後藤、大槌、白丸、久松の4人で、ついに「山形藝術界隈展〇一」が開催されることになりました。僕個人の、東北画とビエンナーレを仮想敵とした当時の勝手な個人的理念は、こうして回り道の末に実行することが出来たといえます。

──その強烈なマニフェストは後藤さんの中では、まだ生きているのでしょうか?

もう「山形」という閉じた世界以上に視野が拡大されてしまった現在では、また別の理念が必要なのかとも思っています。いずれにしても、僕がやることは変わらず、日本の東北の山形という辺鄙な地方都市で暮らす僕らの生活と制作の、飾ることも美化することもない本当の姿を示していこうということです。
それは東北ネタとかこじんまりとしたものではなく、世界中と響き合う普遍的な表現の希求であり、その最もまっとうな手段なのだということを改めて表明しておきたいと思います。

──ありがとうございました。

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