「山形藝術界隈前史」第六回:白丸たくト

山形藝術界隈メンバーによる「山形藝術界隈前史」の連載第六回は、白丸たくトによる前史です。(構成・文:白丸たくト)

「山形藝術界隈前史」初回:後藤拓朗
「山形藝術界隈前史」第二回:大槌秀樹
「山形藝術界隈前史」第三回:根本裕子
「山形藝術界隈前史」第四回:久松知子
「山形藝術界隈前史」第五回:是恒さくら
「山形藝術界隈前史」第六回:白丸たくト

初めて自らの意思で東北の地に足を踏み入れたのは、2015年11月1日のことだった。山形にあるという、廃旅館をリノベーションしたシェアアパート「ミサワクラス」をこの目で確かめるため、そして大槌秀樹さんと話をするため。

彼は自分の身体を使ってパフォーマンス映像をつくる美術家で、1年半前に京都で一度お会いしたことがある。その日はちょうど彼の個展のオープニングで、他にもミサワクラスの住人が何人か来ていた。そして自然とその話になっていった気がする。アーティストたちが自分たちの部屋で展示をしたり、イベントを開いたりできるスーパーフラットな場所。僕はなんとなくその話が頭の片隅から離れないでいた。いま思えば、もちろんその場所自体にも興味はあったが、それ以上にミサワクラスに住んでいる彼らの空気感に惹かれたのかもしれない。それは今まで感じたことのないくらいカラッと乾いていて、正直で、居心地の良いものだった。

「とりあえずビールで」

酒は飲めない方だが、つられてビールを注文する。シェアアパートの目の前にあるヒマラヤというカフェ。大槌さんと僕は中ジョッキ片手にそそくさとカレーを食べた。真っ昼間のことである。

この時期の僕はどこか息苦しさを感じていた。生まれたときから住み続けている関西という特異なフィールドに対して、そしてお決まりの音楽シーンに絡め取られそうになり右往左往しているうちに、ついには自分の表現を見失いかけるその寸前まで来ていた。やばい。何処か、風穴はないのか。東京はだめだ。何処かどこか……。

カフェではいろんな話をしたが「お前が欲しい」と言われたことだけは強く頭に焼きついている。その時期は、大槌さんを含めたミサワクラスの3人が、同じ年の2月から自室でギャラリーを開き定期的に展示を続けていた。来年はその一周年、その年にはビエンナーレもある。まだ会ったことのない人たちが集まってくる。「すごく面白いことになる」。それは間違いなかった。

店を後にしてミサワクラスの中に入る。そこでも酒は待ち構えていた。何人かの住人が大槌さんの声によって召集され、いま興味があることや自分のことを話し合った。「こういうの久しぶりだなあ」と彼は漏らした。とてもいい顔をしていた。

そういえば、いくつか楽器をリュックに詰めてきた。YAMAHAのミニキーボードにドラムマシン、細かな笛や太鼓類。

「どうやって使うの?」ぎこちない手つきで楽器に触れる。思い思いのメロディーを奏でる。自然と身体が動きだす。気が付けばみんな夢中になって楽器をかき鳴らしていた。わぁーすげぇな。これがセッションだ。これが表現だ。年齢や国籍や性別も関係なく、なんの偏見もなく交わる。それぞれが気持ちのいい音を出し、それぞれがその場を、その空気を、その一瞬を楽しむ。

「なんだ、これでよかったんだ」

その夜は音楽と酒に酔いしれ潰れて、硬い床の上を、どこまでも眠った。次の日のことはあまりよく覚えていない。飛行機に乗って見慣れた家路につき、すぐに一通のメールを送った。「引っ越します」と。

✳︎

あれから3年と少しが経ち、僕はいま水戸にいる。山形で出会った仲間とはいまも交流を続けている。僕は、僕にできることをしようと思う。

──作用・反作用を繰り返しながらも、共に生きていけたら。

2019.02.22 白丸たくト

環境破壊時代の藝術 ──大槌秀樹のポスト・ヒューマニズム的想像力について (井上幸治)

震災後の美術の状況を「環境破壊時代の藝術」と定義し、そこから「環境と美術」の問題を大槌秀樹さんの作品から考えてみたいと思います。大槌さんは山形にある東北芸術工科大学で漆工芸を学んでいましたが、大学院で実験芸術を選択してからは現代美術の世界に活動の場を移して、大学院修了後も山形を拠点に作家活動を続けている方です。大学院の修了が2009年ですから、10年近く山形を拠点に現代美術の活動をなされています。

「震災後」の状況を問う時に、被災地となった沿岸部から遠く離れた山形の内陸部で制作活動を続けている大槌さんの作品に注目する理由は、震災後の美術と呼ばれるものの多くが自然の非人間性に対抗するかのように、人間性を構築していく方向性に向かっている状況の中で、大槌さんは人間中心的な方法ではなく、環境中心的な方法を選択し制作をしている数少ない作家の一人だからです。

どうして環境中心的な思考法が選択され難いかというと、それは厄災あるいは災害と呼ばれるものが人間の領域に不意に侵入、侵食して来ることと関係しています。この不意打ちという災害に特有の時間感覚の受動性と(災害は忘れたころにやってくる)、災害がもたらす「恐怖」や「悲しみ」といったコントロールし難い被傷感情の受動性は、共同体の中で増幅されると集団性を希求する「情動」になりやすいので、「復興」という疑いようのない名分が与えられると、自然を対象化する声は(たとえば「自然とはなにか」という問いは)、対象化しない(排除する)という集団の声によってかき消されていきます。

なぜなら自然を対象化するには、自然を他者と認知する必要性がありますが、自然観の他者論的転回が受け入れられていない共同体では、そうした声は個人の主観的な声でしかないので、なによりも人間の権利が優先されるからです。

しかし自然(環境)を対象化しないという選択には、私たちから「なぜこの出来事はおきたのか」と問う機会を奪ってしまっていること。そして外部から侵入してくるもの(恐怖)への防御壁を一新するという名目で、自然環境に対する攻撃性が正当化されるので、そこで行使される暴力が暴力として認識され難いという問題があります。

もちろん生活の再建という意味では「復興」は必要なことです。しかし「排除」という暴力が暴力として認識されることなく行使されるので、強迫観念的に行われる失地回復事業に歯止めが効かなくなり。気がつけば自然が人間に侵食してくる以上の暴力で、人間が自然を侵食している状況が生まれています。自然の圧倒的な暴力の前で言葉を失っていたはずなのに、人間の方がそれ以上の暴力を行使する力(技術)を保有し、それを行なっているという状況が何を意味するのかというと。もはや人間を限定しているのは自然環境ではなく、人間自身の方だということです。

たとえばハンナ・アーレントは『暴力について』の中で、「目的を正当化し、そこに到達するのに必要な手段によって目的がおしつぶされてしまう危険」を指摘していますが(註1)、生活の再建という正当的な目的があったとしても、それを達成する為の手段(技術)を私たちが制御しきれない以上。どんなに自然の前で私たちが無力を感じたとしても、それ以上の力を私たちが保有していること、たとえば「核」といいった破壊への欲望を宿した技術を保有していることを忘れてはいけないのです。なぜならこうしたことを忘れて、暗黒の自然を開拓して光を当てることを善とする時代錯誤な精神を持ってしまうと、取り返しのつかない環境破壊が行われてしまうからです。

こうした状況を回避するには、まずは自然を他者として認識・認知する必要性があります。なぜならここで行使される暴力は、自然を他者として認識しないことで行使される、人間中心主義的な暴力であるからです。ですから、その為には人が自然と接触しかかわることで、「自然という他者」の存在に気づかなければなりません。必要なのは自然を「声も主体もない」存在と認識するのではなく、「声と主体」を奪われた他者と認識することです。なぜなら「自然という他者」の存在が、人間の世界を相対化する概念となるからです(註2)。そして、それを可能とするだけの想像力が美術にはあるはずです。

しかしながら美術の世界においても多くの場合、自然は排除されるか、若くはピクチャレスクな対象、つまり「絵」のような「美しい風景」として眺められるものとしてしか認識されていません。なぜ自然が風景として見られるのかというと、自然を「美しいもの」として見るために必要な「距離」というものがあれば(註3)、「自分から離れたもの、あちら側にあるもの」として見ることが可能となるからです(註4)。

ここで確認しなければならないのは、「自然の眺めや眺望」を描いたものが「風景画」となるのではなく、自然の方を美的規範に当てはめて、絵画の伝統に従わせていくことが「風景画」と呼ばれるものだということです(註5)。つまり風景とは自然ではなく、絵画に由来するものなのです。では、なぜ自然が客体化され「あちら側にあるもの」として見られる必要性があるのかというと。それは厄災によって露わになった自然の「野生性」、「おそろしさ」に人は耐えられないからです。それは私たちが見慣れていた自然、人の手が加えられた「二次的自然」とはあまりにも違うものでありました(註6)。

たとえば震災後の被災地で眼にした草叢(くさむら)の風景というものを、多くの人が覚えていると思いますが、このあらゆるものを覆い隠していく草の魔術的な生命力に感じた驚異というのは、自然界の溢れる「生命」に対する驚異だけではありませんでした。それは「死」を内包していることへの恐怖、脅威でもありました。なぜなら草の持つ被覆性と遮断性には、「草葉の影」という言葉が示唆するように、「死」の影が内包されているからです(註7)。

そこにあったはずの生活の痕跡をすべて包み隠し、すべてを無に帰していく草叢の影は、私たちに近代社会が視覚から排除してきたはずの、「死」に対する原始的な恐怖と不安を思い起こさせます。この死も自然の中では再生の過程の一つの要素でしかないという非情さ故に、それは物理的に排除されるか、あるいは操作可能な客体として遠ざけられることになるのかも知れません。しかし私たちに必要なのは、自然との和解など考えられないほどの断然を目撃してしまった後であるからこそ、自然に対してどのようなアプローチが可能かということを問うことであるはずです。

こうした問いにユニークな選択をしているのが大槌さんといえます。彼の選択は自然に対しの恐怖や不安を物理的に排除したり、あるいは自分と自然との間に境界線を引いて客体化したりするのではなく、その中に身を投じるという方法です。つまり人間の側が侵入者となることで、自然と接触し共生する方法が模索されるのです。

この時に注目したいのは、自然にコミットメントするという作家の選択が、草に覆われた「廃村」や「消滅集落」という自然との境界的な場(エッジ)でおこなわれていることです。そこは被災地で眼にした草叢の風景と同じく、生い茂る草が人々の生活の痕跡を全て飲み込んでいく場です。草に飲み込まれた家屋も、そこにいく道も草に覆われ、草がくれの道となっています。そこは作家が指摘するように福島の「帰宅困難地域」を思い起こさせる場所でもあります。果たして自然に帰していくその光景が、過去の風景なのか、それとも未来の風景なのかは分かりませんが、はっきりとしているのは強迫観念的に失地回復が目論まれる被災地と違い、そこは完全に見捨てられた地となっていることです。

特に経済的な観点から見捨てられた地であって、被災地の多くが郊外という都市の補完物となることで、経済的に依存して生きのびていく道筋が探られているのに対して、そこは見事なほど「グローバル化と資本主義から取り残された」場所となっています。そうした意味において、そこには社会とコミットメントするという選択肢はありません。あるのは自然とのコミットメントとするという選択肢だけです。しかし大事なのは紛れもなくそこが人間と自然が出会うコンタクトゾーンとなっていることです。

では、こうした場所でどの様な作品が制作されているのでしょうか。具体的に作品を見ていきたいと思います。

大槌さんの作品を理解するうえで最も重要なことは、人間の肉体的弱さが前提とされていることです。たとえば《名もなき神々》(2018年)や(註8)、《撮影と風景》(2017年)といった映像作品では(註9)、裸(腰巻一丁)という無防備な状態で自然環境の中に侵入していき、あえて身体が虫の攻撃や獣の気配といった危険に囲まれる状況が作られています。こうした行為から明らかになるのは、人間の肉体の有限性です。人間の肉体の有限さとはハロルド・フロムが『超越から退化へ』の中で指摘したように、テクノロジーが発達する以前の人間には自然に対抗する力がなかったので、人々は「精神と神々」に眼を向けるしかなかったという状態を意味します(註10)。つまり、なぜ作家が神人同型論的に古代ギリシャの神々に扮するのかというと、神々という「人間以外の存在(ノンヒューマン)」に自己を投影しなければならいほど、人間は自然と交渉することができない弱い存在だということが再現されているからといえます。ここで気を付けなければならないのは、作家がここで試みている人間以外の存在に自己を投影する行為とは、世界を擬人化し人間中心主義的な表象を目論む行為ではなく、むしろ人間以外の存在に自己を投影することで、人間の弱さを際立たせて、そこから人間と世界を相対化する試みとなっていることです(註11)。

たとえば《撮影と風景》では、画家の後藤拓郎とのコミカルなやりとりが展開されていますが、ここで確認すべきことは自然と対峙する肉体の自明的なほどの無力さが笑いを誘う要因となっていることです。ここでは自然との接触が、無数の虫に攻撃されるという不快さ、あるいは脅威として経験されることで、自然に対する人間の特権性や優越性が見事に否定されています。

この時に注意したいのは、作品内で私たちの「笑い」を誘う虫の攻撃という触覚的イメージとは、視覚優先なピクチャレスなものの見方に対する見直しの要求でもあるということです。なぜなら、こうしたプロセスで認知される自然と自己との間には、自然を客体化する距離が生まれないからです。もちろんカメラは常に被写体を含め背後にある自然を視覚的イメージとして捉えようとしています。しかし身体表面に加えられる虫の攻撃は、私たちの意識を視覚的イメージではなく、触覚的、聴覚的イメージへと導いていきますので、自然を客体化する距離を維持することが難しいものとなります。このことが何を意味するのかというと、自然を「自己の意識を投影する」ための風景と見なすことが困難な状況がここにはあるということです(註12)。

たとえばパノラマ的視点から捉えられた風景には、人間の意識が投影しやすいので、自然の美しさを人間の愚かさを包含するものとして描くことが可能となります。しかしここには、そのような見方を可能とする主体と客体の関係性がありません。なぜなら、ここでは人間の肉体的弱さを前提とすることで、視覚的イメージを前提とした自然との一体化というロマン主義的な願望が拒まれているからです。

もちろん多くの作家と同様に、大槌さんの作品にもロマン主義的な風景との同一化という願望が確認できます。たとえば蔵王連峰を徒歩で登頂した友人の記録を追体験に拡声器で読み上げながら同じ場を歩いて廻る映像作品、《歩行と状況描写、素朴な絶望、そこにあったのは月面》は(註13)[画像1]、山の麓から月面(山頂)へという惑星的遠近法を用いた作品ですが、ここにはフリードリヒの『海辺の僧侶』(註14)[画像2]を強く想起させるものがあります。

しかし拡声器を持って方向喪失的に歩き廻る姿には、ロマン主義的な自然との同一化を壊す要素があることも事実です。たとえばそこで作家が対峙しているのは自然なのか、あるいは自然についてのテクストなのかという問題です。自然を対象化し認識するために書かれた記述が同時に、自己と環境との一体化の間に介入してきて、モノとコトバを巡る葛藤を生んでいます。そういた意味では、ここには自然と人間を一体化し調和するというロマン主義的な幻想はありません。あるのは緊張と葛藤という関係性といえます。

ここでロマン派的願望が否定されるのは、おそらくロマン主義の中に内包されている人間中心主義的自然観が作家によって否定されているからだと思われますが、いずれにせよ重要なのは、こうした否定が人間の肉体的弱さを前提に行われていることです。つまり有限な存在である人間がその弱さを自覚しながら自然環境のなかを移動することで、自然の他者性を知ることが可能となり、そこから新たな表現の可能性を問い直すということが試みられているわけです。ここに大槌さんの人間中心主義的ではない、ポスト・ヒューマニズム的な想像力の可能性があると考えますが、こうした試みこそが環境破壊時代の藝術に求められる役割ではないだろうか。

(註)
1.ハンナ・アーレント『暴力について』(高野フミ訳、山陽社、1973年、P94頁)
2.沈黙する自然の他者性については、クリスファー・マニス「自然と沈黙 ─思想史のなかのエコクリティシズム」(城戸光世訳)、『緑の文学批評 ─エコクリティシズム』(松柏社、1998年)を参照。
3.たとえばアラン・コルバンは『風景と人間』(小倉孝誠訳、藤原書店、2002年)の中で「風景というのは距離を前提にします」と述べている。56頁)
4.デイヴィド・C・ミラーは『ダーク・エデン』(黒沢眞里子訳、彩流社、2009年)の中で、John Barrellの「高いところに視点をおかなければならない大きな理由は、そうすることによって風景と観察者の間にスペースがうまれるからであり、それは絵と絵を見るものとの間のスペースと同じ効果を生む」(427頁)という言葉を引用しながら、絵画ついて語れる距離について考察している。
5.このような風景の逆説性については柄谷行人「風景の発見」、『日本近代文学の起源』(講談社、1980年)を参照。
6.ハルオ・シラネ「四季の文化 ─二次的自然と都市化」、『水声通信』32号、水声社。2010年。
7.たとえば三品理絵は『草叢の迷宮』(ナカニシヤ出版、2014年)の中で、「「草葉の影」という語が墓の下、墓所、あの世を指すように「草陰」とは、往々にして異空間、さらに死の世界へと通じる場であると考えることができる。」と述べている。
8.大槌秀樹《名もなき神々》(2018年、8分30秒)
9.大槌秀樹《撮影と風景》(2017年、12分5秒)
10.ハロルド・フロム「超越から退化へー伝統的自然観の終焉」(吉田美津訳)、『緑の文学批評 ─エコクリティシズム』(松柏社、1998年)
11.矢野智司は『動物絵本をめぐる冒険』(勁草書房、2004年)の中で、人間中心主義的な思考法を批判的に捉えることを可能とする擬人法(「逆擬人法」)の可能性を指摘している。
12.たとえばエドワード・アビーは『砂の楽園』(越智美智雄訳、東京書籍、1993年)の中で、「人間の意識の投影としての世界」ではない、世界そのものと直接出会うことを模索している。
13.大槌秀樹《歩行と状況描写、素朴な絶望、そこにあったのは月面#1・2》(2017年、7分51秒、13分33秒)
14.カスパー・ダーフィット・フリードリヒ『海辺の僧侶』(1808-1810年)


[画像1]


[画像2]

主な参考文献
デイヴィド・C・ミラー『ダーク・エデン』黒沢眞里子訳、彩流社、2009年
イーフー・トゥアン『トポフィリアー人間と環境』佐伯治訳、せりか書房、1992年
ロバート・ローゼンブラム『近代絵画と北方ロマン主義の伝統―フリードリヒからロスコへー』神林恒道、出川哲朗訳、岩崎美術社、1998年
三品理絵『草叢の迷宮』ナカニシヤ出版、2014年
B・ノヴァック『自然と文化―アメリカの風景と絵画』黒沢眞里子訳、玉川大学出版部、2000年
野田研一『失われるのは、ぼくらのほうだ』水声社。2016年
サイモン・シャーマン『風景と記憶』高山宏・栂正行訳、河出書房、2005年
ハロルド・フロム他『緑の文学批評―エコクリティシズム』松柏社、1998年
下河辺美知子『グローバリゼーションと惑星的想像力』みすず書房、2015年
ハンナ・アーレント『暴力について』高野フミ訳、山陽社、1973年
アラン・コルバン『風景と人間』小倉孝誠訳、藤原書店、2002年
矢野智司『動物絵本をめぐる冒険』勁草書房、2004年
伊藤詔子『よみがえるソロー』柏書房、1998年

「山形藝術界隈前史」第五回:是恒さくら

山形藝術界隈メンバーによる「山形藝術界隈前史」の連載第五回は、是恒さくらによる前史です。(構成・文:是恒さくら)

「山形藝術界隈前史」初回:後藤拓朗
「山形藝術界隈前史」第二回:大槌秀樹
「山形藝術界隈前史」第三回:根本裕子
「山形藝術界隈前史」第四回:久松知子
「山形藝術界隈前史」第五回:是恒さくら
「山形藝術界隈前史」第六回:白丸たくト

【「山形藝術界隈」との出会い】

「山形藝術界隈」が「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2016」のプログラムだった「市プロジェクト」の「アートの市 芸術界隈」から派生した経緯は、これまでのメンバーの前史で語られている通りです。私は2015年に広島県から山形県に移住、山形ビエンナーレ2016開催時は東北芸術工科大学大学院の地域デザイン研究領域に在籍していました。「山形ビエンナーレ2014」を見て、市民を巻き込んだ芸術祭のプログラム作りや山形の歴史・民俗文化と芸術活動を結びつける取り組みに関心を持ったことから、同大学院への進学を決めました。

市プロジェクトと芸術界隈には美術家としてではなく、山形ビエンナーレ2016のアシスタントキュレーターとして関わりました。当時、私を含めて3人のアシスタントキュレーターがいて、それぞれ複数のプロジェクトや会場の企画運営に携わっており、私は芸術界隈の「KUGURU」(注:山形市七日町・とんがりビル内のギャラリー)ブースを担当しました。山形ゆかりのアーティスト2名の作品を売買するマネージャーのような立場でしたが、その傍らで自作のリトルプレスを売り、ミサワクラスのブースの「MOLE GALLERY」に作品を置かせてもらっていました。

【山形ビエンナーレの「市プロジェクト」で得たもの】

文化庁の「大学における文化芸術推進事業」の支援による市プロジェクトでは、山形・東北在住のクリエイターらに参加が呼びかけられ、2016年は5つの市が立ち上がりました。2017年はいくつかの市を残して新たな編成となりましたが、そこに芸術界隈は含まれておらず、私は新たに発足した「こどもとデザインの市」のサブファシリテーターを務めました。こうして2年間、運営側に近い立場で市プロジェクトに関わりました。

私は市プロジェクトが目指していた〈ものづくりの地産地消の仕組みづくりの実践〉に共感していました。それは美術館施設やギャラリーの存在感の希薄な地方都市においても芸術・アート・多様な表現が日常的に交換されていく文化を育むことであるし、クリエイターが地方都市で自活できる土壌を築くことでもある。また、この理想を実現するのはとても時間のかかる仕事になる、とも感じていました。文化は1年、2年の短いスパンで変わるものではないから、時間をかけて取り組まなければ根付かないだろう、と。

市プロジェクトから派生した山形藝術界隈の動きに興味を持ったのは、芸術界隈の活動が1年目で止まった後も山形藝術界隈はさまざまな人と関わりながら有機的に動き続けていたからです。発表の機会や場所が用意されるのを待っているのではなく、自分たちの表現を実現するため活動の場を広げていく、活動できる仕組みを作っていく。誰かの呼びかけや企画にアイデアを出しあい、興味のあることを共有して刺激しあっていく。山形藝術界隈の中でユニットやコラボが生まれる。大きなプロジェクトに乗っかるのではなく、日常的にやりとりできる関係性だからこそ持続する。「市プロジェクト」の功績は、同じ地域で生活していながら接点がなかったクリエイター同士を出会わせ、新たなネットワークを生み出したことだと思っています。

【石巻で活動すること】

今年から美術家として山形藝術界隈に参加していますが、参加を決めたのは山形藝術界隈が石巻に活動を広げたから、というのも大きな理由です。私は2015年から捕鯨文化のフィールドワークのためたびたび石巻、特に牡鹿半島エリアに通い、鯨にまつわる物語の採話集としてリトルプレス『ありふれたくじら』を発行、これまで東京や横浜で作品発表も行ってきましたが、自分の表現を石巻で広く紹介できていない、この土地から得たものをこの土地に還せていない、というジレンマがありました。美術家として、石巻にどう関われるのかということに向き合いたいと考えていました。

私は、芸術(アート)は日常の延長線上にあるものと考えています。暮らしの数だけ芸術があって、土地ごとの美意識がある、と。3年前から東北の沿岸部を訪ねていますが、石巻もこの3年でずいぶんと変わったと思います。「東日本大震災」を契機につくりだされたもの、表出したもの、表現されたものは数えきれない一方で、震災から何年も後に石巻を訪ねた私は、震災以前からあるもの、震災を経て形を変えたとしてもつくり続けられ、この土地で観賞され続けるものの〈美〉を知りたいと思いました。

牡鹿半島のある浜で、人気のない漁港で灰色の空と海を見ていて、はっと目をひくものがありました。漁船が掲げる「大漁旗」でした。新しい船の門出に送るものであり、大漁に恵まれた漁船は大漁旗を掲げて帰港します。石巻に限らず、大漁旗は各地の漁港で見かけます。漁業と染物の関係は古く、かつて南は静岡〜北は青森まで、太平洋沿岸の漁民のあいだには「万祝」という着物を大漁の祝いに贈る風習がありました。魚や鯨、鶴や亀を絵柄にした、鮮やかで美しい着物です。漁獲に感謝を捧げる芸能に使われた衣装であり、網元から漁師への「褒美」であり、その出来事を覚えておくための絵のようでもあります。現代の大漁旗の絵柄も万祝の意匠から来ているともいわれます。東日本大震災時、たくさんの船が壊れましたが、その後つくり直されたたくさんの船にも、大漁旗が贈られたそうです。大漁旗は非日常をはさんで、震災以前と以後の日常をつないでいるような気がしました。

石巻で私が出会った人たちは大漁旗を「芸術」とは呼びません。芸術と呼ぶにはあまりに身近なのだと思います。芸術はそれくらい、日常から離れた言葉でもあるのでしょう。私は大漁旗を「芸術」として見たいと思い、それは山形藝術界隈と活動すること、石巻のキワマリ荘に関わることと近いものがあります。日常の延長線上にあるものとしての芸術は、外から持ち込まれる異質なものでなく、内にあったものの美をどれだけ表出させられるか、ということでもあると思うのです。

石巻には、大漁旗や神社の幟、獅子幕を作り続けている「山田染工場」があります。江戸時代から石巻で続く工場で、旦那さんが染め、奥さんが縫製を担う小さな工場です。「年間山形藝術界隈展」の〇七展は、私と久松知子さんとの二人展として、「芸術(アート)と日常の関わり」をテーマとしました。私は石巻の日常風景である大漁旗文化と山形藝術界隈との融合点を模索しようと、山田染工場さんとの対話と「藝術の旗」の共同制作に取り組んでいます。

「山形藝術界隈前史」初回:後藤拓朗
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「山形藝術界隈前史」第四回:久松知子
「山形藝術界隈前史」第五回:是恒さくら

「山形藝術界隈前史」第四回:久松知子

山形藝術界隈メンバーによる「山形藝術界隈前史」の連載第四回は、久松知子による前史です。(構成・文:久松知子 構成協力:halken LLP)

「山形藝術界隈前史」初回:後藤拓朗
「山形藝術界隈前史」第二回:大槌秀樹
「山形藝術界隈前史」第三回:根本裕子
「山形藝術界隈前史」第四回:久松知子
「山形藝術界隈前史」第五回:是恒さくら
「山形藝術界隈前史」第六回:白丸たくト

【はじめに】

美術家・有馬かおるさんとのご縁から、アートスペース「石巻のキワマリ荘」で、山形藝術界隈(以下:界隈)のメンバーが一年間展覧会を運営する「年間山形藝術界隈展(石巻のキワマリ荘プロジェクト)」が始まった。
このテキストでは、わたしの視点からの界隈との出会いとこれから石巻のキワマリ荘でどうしていくかの起点について記す。

【アートの市 芸術界隈】

私たちが集まったきっかけは、2016年に山形市で開催された「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2016」(以下:ビエンナーレ)の一環で企画されたプロジェクト「アートの市 芸術界隈」(以下:市プロジェクト)だ。これは、芸術祭会期中の毎週日曜に、市内中心部の七日町御殿堰という芝生広場を会場に、絵画や陶芸作品などの美術作品を野外マルシェのようなスタイルで販売を試みた事業である。
私はこのプロジェクトに、当時所属していた共同アトリエ「工房 森の月かげ」のメンバーとして参加した。作品を売るためにいろいろな工夫をしてみてはいたが、ふと隣のシェアアパート「ミサワクラス」(以下:ミサワ)のブースを見ると、売り上げが多いわけではないが、他とは違う動き方でプロジェクトを盛り上げているように見える。彼らは何をやっていたのか?
ミサワのブースは、後藤拓朗さん、大槌秀樹さん、白丸たくトさんの3人組。彼らはあらかじめ与えられていた展示ブースの上に、単管パイプで独自のステージを製作。その見晴らしの良い高台で、音楽家の白丸さんの弾き語りライブをしたり、大槌さんの拡声器を用いたパフォーマンス「代行演説」を行ったり…。後藤さんは展示ブースに依存する、ダンボール製のホワイトキューブ「MOLE GALLARY」を制作。後藤さんのダンボールギャラリーは、繊細なアートの販売を雨風太陽にさらされる屋外で行うこのプロジェクトに対して、プロジェクトの内側から批判するという態度を示しているように見え興味深かった。音楽や身体を扱う白丸さんや大槌さんのパフォーマンスは、ほかの商品の大半が絵画や陶器といったモノを扱う中で際立ち、観客の視線や場の雰囲気に変化を与えていた。
思いついたアイデアを実験的にどんどん試していく彼らの態度を見て、私も仲間に入れて欲しいと思うようになった。単管パイプで立てられたステージで、私は市プロジェクトの参加者たちにインタビューを行う「芸術界隈ラジオ ひさまつ子の美術の部屋」(長いタイトル…)をやってみた。
芸術祭が終わってすぐに、私は彼らのアジトであるミサワに引っ越すことに決めた。

【ミサワクラス】

2016年11月、私はミサワに入居した。ここは、山形市内でも最も中心部に位置している、かつての旅館をリノベーションした居住空間だ。
引っ越しの動機は、市プロジェクトでのミサワの3人が魅力的だったのもあるが、これまでの共同アトリエでの制作と、郊外での一人暮らしに行き詰まりも感じていたこともあり、環境の変化を求めてのことだった。
ミサワに来てからは、市プロジェクトで仲良くなった近所のアーティストたちで集まって夜な夜な密会(飲み会)が行われた。そこで話されたことは、芸術祭という誰かが用意してくれた器に乗り続けるのではなく、自分たちの手で「芸術界隈」を続けてみないかということだった。
そうして、2017年2月に有志の集まりで「山形藝術界隈展〇一」をミサワクラスで行った。その展覧会自体は失敗も多く、芸工大の卒展を見に来ていた宮島達男さんに酷評されるという苦い経験もあったが…その後、第4回まで2017年に山形県内を中心に開催する機会に恵まれた。
私はその冬に気になっていたことがある。私自身のやりたかった事として、市プロジェクトで起こったこれらの出来事を記録し、現場に居合わせなかった人に臨場感を伝えたかったのだが、それが困難だったことだ。それは、言葉で説明しても、もう一度「ラジオ」をやってみても、インスタレーションで再現しようとしても、うまくいかず、それを他者に伝えることは難しかった。

【思い出アルバムpainting】

それでも一番可能性がありそうだな、と感じたのは、その出来事についての絵を描くことだった。市プロジェクトのときに撮影した写真をもとに、ミサワクラスのアーティストや、その現場を〈記録画〉として描く。それが、「思い出アルバムpainting」シリーズの始まりだった。携帯やパソコンに記録された写真の画像データは放っておくと埋没していく。これらのイメージは撮りやすく、瞬間的にシェアが可能で、それでいて残りにくいことは周知の事実だ。それに対する絵画は、人間の歴史の中でも最も古い原始的な芸術表現だ。電源に依存することもなく、それそのものの物質性が強い。出来事の追体験と記録の媒体として、自分の一番の武器である絵を使えばいいのではないか?写真を絵画に置き換える。絵画はクオリティさえ担保できれば、物質としても記憶としても残る可能性が高まる。その絵を展示すれば、その出来事について物語る場面も必然的に生まれるのではないか?
ちなみに「年間山形藝術界隈展」では、この作品に、是恒さくらさんによるテキストが加わった二人展を計画している。描かれた物語について語る媒体として彼女の言葉が加えられることに、この作品の進展の予感があって、今からとても楽しみである。

【グループで芸術活動をする】

東北芸術工科大学(以下:芸工大)の学部生の頃から、自分の絵を描くことと、他者と協働してアートの活動をすることを平行して続けている。「東北画は可能か?」(以下:東北画)という美術教育と芸術運動を兼ね備えた芸工大の課外活動に、2011年から2016年頃まで参加してきた。そこでは、合宿しながらの地域での滞在制作や、絵画の共同制作、展覧会の共同キュレーションなどを行った。東北画の生みの親である三瀬夏之介さんは、自作の展開と平行してグループで何か作ることを良しとする人だ。彼の教えは、古今東西の多くのアーティストのように、太く長くその活動を続けるためのパイプを複数持ってサバイブせよということだと思う。私自身は、現在も大学に在籍はしているが、拠点としてそこに依存しつづけることはできない。教育的プロジェクトでもある東北画から離れ始めたタイミングで、野に下りて出会った仲間たちと界隈を作りだしたことは、わたしにとって自然な動きであり、必然性のあることなのだろうと思っている。

【石巻に来ることについて】

2017年の暮れから有馬かおるさんとのご縁で石巻に通うことになった。有馬さんは2017年にReborn-Art Festival(以下:RAF)への参加を機に同年この町に移住してきたアーティストである。この町では、その年の夏にフェスが開催され、国内外の現代美術作品の展示が行われた。RAFは、2011年に大津波の被害を受けた地域の復興の過程で、その6年目にアートを運び込んだ。その7年目に、私自身はこの町で展覧会を行うために通うことになった。
石巻に来ると、わたしは2014年に同級生が卒業制作で描いた日和山から町を一望した風景画のことを思い出す。彼女は震災後すぐにこの町にボランティアに来て、卒業するまで災害復興支援に情熱を傾けていたようだった。
片や、わたしは、震災直後に被災地に行ったり、直接的なボランティア活動をすることができなかった。震災直後のわたしは、絵を描くことを中心にしかなかなか体が動かなかった。そんなタイミングで「東北画」のメーリングリストからメールが届いた。震災前から制作予定だった共同制作を集まって描くというので、参加した。そうして同世代の美大生10人ぐらいで集まって、ひとつの大きな方舟の絵を描いた。今振り返ると、この経験は自己治癒としての〈お絵描き〉だった。
震災直後に石巻に来て、人生を変化させていった彼女と、震災のときも絵を描くことを選び、石巻に来る目的も「展覧会をつくるため」である自分を勝手に対比的にとらえてしまう。それも何らかの遠い縁なのだと勝手に考えている。
石巻で仲間たちとこれからどうしようか。有馬さんは、これまで、犬山や水戸での「キワマリ荘」から世界のアートシーンに接続していった人で、「そこに届くまで」のビジョンを、私たちにも伝えようとしてくれる。「石巻のキワマリ荘」で、彼は、アートについて、これから何をどう作るべきかについて多く語っている。わたしたちの、まだ輪郭線も明確ではない芸術運動体が、そのなんらかの輪郭が明確になり、ここから、どこか遠くにそれが届く日が来るように、一年間の企てを営んでいきたいと思う。

2018年4月16日

「山形藝術界隈前史」初回:後藤拓朗
「山形藝術界隈前史」第二回:大槌秀樹
「山形藝術界隈前史」第三回:根本裕子
「山形藝術界隈前史」第四回:久松知子
「山形藝術界隈前史」第五回:是恒さくら

「山形藝術界隈前史」第三回:根本裕子

山形藝術界隈メンバーによる「山形藝術界隈前史」の連載第三回は、根本裕子による前史です。(聞き手・構成:halken LLP)

「山形藝術界隈前史」初回:後藤拓朗
「山形藝術界隈前史」第二回:大槌秀樹
「山形藝術界隈前史」第三回:根本裕子
「山形藝術界隈前史」第四回:久松知子
「山形藝術界隈前史」第五回:是恒さくら
「山形藝術界隈前史」第六回:白丸たくト

東北芸術工科大学(以下:芸工大)の大学院を修了した後、宮本武典さん(芸工大主任学芸員)から山形市の繁華街にあるシェアアパートに何人かで住んでみないかと誘われたのが、今日の山形藝術界隈(以下:界隈)へと繋がるきっかけだったように思います。そこには芸工大建築学科の学生が住んでおり、作家志望の人にも声をかけているとのことで、そこで私の名前が挙がったということのようでした。それが、後のミサワクラス(以下:ミサワ)になっていきます。ちなみに、同級生である大槌秀樹さんもミサワに入居しました。私は、ミサワには2009~2013年までいました。

ミサワでは、共同生活上のルール作りから、社会の事、美術の事をみんなと語り合ったりして生活していました。そんな生活の中から、「三角コーナー」という住民による実験的なweb上ギャラリーが生まれたり、「SANZOKU」という陶器ブランドが立ち上がったりしました。ちなみにSANZOKUは当初、アートユニットとして大槌さんも参加していましたが、現在は族長である私が主宰するブランドになっています。なお、それぞれの制作活動とは別のものとして存在するミサワは、地方や山形のことを考えたりするためのベースとなっていたと今では思います。

2011年の震災を経て、芸工大とミサワの関係が変わり私たちの状況は一変しました。ここから「私たちは語る言葉を持たない」という独自の展覧会がミサワで行なわれましたが、芸工大との関係が一変したのがこの展示の理由でした。その後、2013年にミサワを離れ、自分の窯を持つに至ります。拠点となる場所は、なるべく不動の地が良いので実家がある福島にしました。震災の影響を知る事や、高齢の祖母もいた事も理由として挙げられます。

福島での生活は実家のため、作家ではなく「娘」としての自分です。その為、制作は孤独なものになりがちです。そういうこともあり、山形やミサワの関係を維持したまま、グループ展や芸工大の演習のファシリテーターなどを行なっていました。ミサワで行われた「MOLE革命」展では後藤拓朗さん、芸工大ファシリテーターではhalken LLPの三浦晴子さんと知り合います。

2014年からは、山形ビエンナーレ(以下:ビエンナーレ)にも関わることになります。ここでは絵本作家の荒井良二さんと出会います。2016年のビエンナーレでは、山伏の坂本大三郎さんとの共同制作や、山形の和菓子屋さん(佐藤屋)の菓子器なども制作しました。ビエンナーレのアシスタントキュレーターをしていた是恒さくらさんと知り合ったのもこの年です。

また、2016年のビエンナーレ期間中に開催された「市プロジェクト」の一環で、三瀬夏之介さんが担当する「芸術界隈」というアートの市にも参加しました。これはアート作品を「市」という仕組みで販売するというものです。私はSANZOKUのブースで参加しましたが、芸術界隈のシンボルを作る事になり、山形の市神さまと船がモチーフの芸術界隈の市神を制作しました。参加メンバーの中には、ミサワや知っている顔もありました。ここでは、久松知子さん、halken LLPのアイハラさんと知り合います。ここで、ようやく界隈へと繋がる道筋がみえてきます。

その後、アートの市に参加した作家たちが任意で寄り集まり、ビエンナーレとは離れたかたちで作品展示を行う事になります。
「山形藝術界隈」の始まりです。

今回の石巻のキワマリ荘プロジェクトでは、「山形藝術界隈友の会」(ファンディングプロジェクト)のリターンアイテムとして壺を制作します。そこにはこの界隈に関わる人たちの絵や、パターン、文字が描かれます。壺の共同制作をすることによって界隈の構図が見えてくるのではないでしょうか。個人の作品と共に、その事自体を私のプロジェクトとして考えていきたいと思っています。

「山形藝術界隈前史」初回:後藤拓朗
「山形藝術界隈前史」第二回:大槌秀樹
「山形藝術界隈前史」第三回:根本裕子
「山形藝術界隈前史」第四回:久松知子
「山形藝術界隈前史」第五回:是恒さくら

「山形藝術界隈前史」第二回:大槌秀樹

山形藝術界隈メンバーによる「山形藝術界隈前史」の連載第二回は、大槌秀樹による前史です。(聞き手・構成:halken LLP)

「山形藝術界隈前史」初回:後藤拓朗
「山形藝術界隈前史」第二回:大槌秀樹
「山形藝術界隈前史」第三回:根本裕子
「山形藝術界隈前史」第四回:久松知子
「山形藝術界隈前史」第五回:是恒さくら
「山形藝術界隈前史」第六回:白丸たくト

──大槌さんは東北芸術工科大学(以下:芸工大)の大学院を修了されていますが、大学院を出た後の活動からお聞かせください。

大学院を修了した私は、どこかに行くアテもなく、どうしようかと彷徨っていました。そんな時、芸工大のキュレーターである宮本武典さんから声をかけていただき、「ミサワクラス」(以下:ミサワ)の設立に携わり、そしてそのままミサワでの生活を開始しました。ミサワは山形市の中心部にある七日町の廃旅館をリノベーションしたシェアアパートで、様々な人が共同生活し何かを生み出していく場として設立されたものです。この設立のメンバーの中には、後に山形藝術界隈(以下:界隈)に参加する陶芸家の根本裕子さんもいました。
ミサワ設立から2年間ほどは、芸工大主催(宮本武典キュレーション)による展覧会やイベントが定期的に開催されていました。しかし、その代償としてその間、個々の作家としてのキャリアは見込めない現状であったともいえます。

──とはいえ、ミサワでの活動は華々しく映ったのではないでしょうか。当時私も芸工大の活動を見聞きする機会がある度に、芸工大も面白いことをするようになったなぁと思っていました。

そんな中、震災後に状況はがらりと大きく変わりました。芸工大が地域連携や地域貢献活動に大きく舵を切ったのです。ミサワは芸工大との関わりが無くなりました。私たち(当時のミサワ作家たち)は、今まで芸工大に甘えていた状況を猛省し、自主的に活動を開始していったのでした。「私達は語る言葉をもたない」と題するミサワ全体(各作家の生活している部屋、共同の場)を使った展覧会を3年ほど開催したりもしました。それなりに見に来てくれる方もいらっしゃいましたが、この東北の偏狭さと外部との繋がりは作れずじまいで、ミサワの作家たちは徐々に疲弊していきました。芸工大一強のこの場において、「それ以外」となった私たちは無力感に陥ったのです。

──震災後のミサワは、そんな状況だったのですね…。

2014年でしょうか、私はとうとう一人になってしまいました。ミサワにいた作家たちは、それぞれ他の場所に拠点を移していったのです。残された私は、それはもう絶望的でした。そんな中、救いのように京都での個展の機会をもらいました。この展示には、後に界隈に参加する音楽家・白丸たくトさんが観に来てくれました。
翌年の2015年には、ミサワに新しい入居者が来ました。出口惣一さんといって関西出身の方です。大阪芸術大学で土田ヒロミさんの下で写真を学んでいただけあって、一風変わった人でした。唐突に「部屋でギャラリー始めたいねん」と言ってミサワに来たんです。彼のこのひと言に、腐りかけていた活動する事への活力が湧きあがり、感動したのを覚えています。

──そこからMOLE GALLERYの活動に繋がっていくのですね。

私と出口さんと建築を専門とするミサワの入居者(工藤裕太さん)との3人でもう一度、このミサワでの作家活動を改めて開始することにしたのです。最初の1年間はリハビリと称して、観客が来ようが来まいが、定期的に展覧会を開催し好き放題活動しました。3人の各部屋は、「AAOO Public Space」「空地画廊」「MOLE GALLERY」とそれぞれネーミングされ、廃旅館の共同生活の場の中に3つのアートスペースが生まれたのです。そしてこの展覧会には、後に界隈に参加する孤独な美術家・後藤拓朗さんが観に来てくれました。彼とはすぐに意気投合しました。

──大槌さんの界隈への輪郭線はここに起点がある感じですね。その後どう広がりをみせるのでしょう?

さらに翌年の2016年は私にとって大きく動いた年でした。2月にミサワでの3ギャラリー同時開催展「Throw into Space」を実施しました。その中の私のギャラリー「MOLE GALLERY」では、「MOLE 革命」と題した入れ子状態のグループ展を行ないました。この「MOLE 革命」展には、根本裕子さん・後藤拓朗さんも参加し、「東北画は可能か?」(以下:東北画)の三瀬夏之介さんや宮本武典さんも観にこられ、芸工大との繋がりが再び始まっていきました。
この時期には京都で知り合った、音楽家・白丸たくトさんがミサワに引っ越してきます。それと入れ替わりで写真家の出口さんが諸事情により関西へ戻ってしまうという寂しい出来事もありましたが…。

──白丸・大槌・後藤という3役者が揃い、いよいよ山形ビエンナーレ(以下:ビエンナーレ)に突入していくという感じですね。

9月にビエンナーレが開催され、私と後藤さん白丸さん、そして根本さんも各場面で召還されていきました。ビエンナーレへの参加については、後藤さんと意見が分かれ議論を重ねましたが、結果としてはみんなが参加することとなりました。この狭い山形での美術勢力図として、芸工大主導の東北画、ビエンナーレの2つが大きな力を持ち、それ以外の作家は厳しい状況下におかれている事に対して、市民による第3極を打ち立てることへの構想もありました。
ビエンナーレ期間中には、「アートの市・芸術界隈」(以下:市プロジェクト)が三瀬夏之介さんのディレクションにより始まりました。これは、山形のアートコレクティブを一同に集め、市(=展示即売)として展開する試みです。三瀬さんの東北画をはじめ、halken LLP(キュレーションチーム)、森の月かげ(山形の共同アトリエ)、SANZOKU(根本裕子主宰の陶器ブランド)等のブースが立ち上がり、その中のひとつとしてミサワも参加しました。私と後藤さん白丸さんによるブースです。

──私も出展者として参加させていただきましたが、ミサワのブースはひときわ異彩を放っていたのを覚えています。

ミサワのブースは他のブースとは違い、「アートを売る」という行為からどれだけ離れていけるのかの実践でした。ブースの上に単管パイプでやぐらを組み、「展望場」と称したイベントスペース──市を一望できる場で、白丸さんのライブや、トークショーが行われた──や、ぼろぼろの段ボールにより仮設されたギャラリー「MOLE GALLERY」を出現させ──後藤さんによる、未来の私とMOLE GALLERYの展開図でした──、他のブースとは異なった機能を持たせていきました。後に界隈に参加する隣のブースにいた美術家・久松知子さんや、halken LLPが僕らに興味を持ってくれました。美術家・是恒さくらさんともここで知りあい、後に界隈にコミットすることとなります。その後、久松さんはミサワに入居します。

──その後、「山形藝術界隈」が誕生ということですね。

はい。ビエンナーレの市プロジェクトで出会った私たちは、「山形藝術界隈展」と称し第一回目の展覧会をミサワクラスで開催します。ここから、〇二(山形・白鷹町文化交流センター)、〇三(東京・新宿伊勢丹)、〇四(山形・鶴岡アートフォーラム)と各地で展覧会を開催しました。
そして、2018年にはアーティスト・有馬かおるさんとの出会いがあり、今日に至るという感じです。

──最後に「年間芸術界隈展」での大槌さんのビジョンをお聞かせください。

昨今話題になっている〈コレクティブ〉というキーワードですが、界隈ももちろんその位置づけに入ってくることは十分に想像できますし、事実そう見られているとも感じています。ただ、界隈のメンバーは、それに対してさほど興味はないというのも事実です。もちろん、集団としての活動の結果、みんなに認知される事はとても嬉しいし、そうなっていきたいですし、そういうモチベーションはとても重要だと思います。でもそんなことよりも、他に媚びる事もなく、制作での必然性や遊びを重視し、表現への深い動機を求めていきたいですね。コレクティブとして均質化していくのではなく…。
現在開催されている「山形藝術界隈展〇五/〇五・五」は、界隈の紹介も兼ねたグループ展示として位置づけられていますが、その後続いていくそれぞれの企画展のほうが、集団としての界隈をひも解くうえではとても重要になってくる気がしています。今後の展示は作家が1~3名の個人企画的なスタイルとなりますが、これはそれぞれのミクロな「山形藝術界隈」を表出していくといえるでしょう。このミクロな界隈こそが私たちの核であり、それでいて他者との類似性/差異性/発展性を考えざるを得ない側面を持っています。一年後、メンバーがそれぞれどんなミクロな界隈を率いて、「山形藝術界隈」として表出するのかがとても楽しみです。

──ありがとうございました。

「山形藝術界隈前史」初回:後藤拓朗
「山形藝術界隈前史」第二回:大槌秀樹
「山形藝術界隈前史」第三回:根本裕子
「山形藝術界隈前史」第四回:久松知子
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「山形藝術界隈前史」初回:後藤拓朗

「山形藝術界隈展〇五・五」の開催にあわせて、山形藝術界隈メンバーによる「山形藝術界隈前史」の連載を開始します。初回は、後藤拓朗による前史です。(聞き手・構成:halken LLP)

「山形藝術界隈前史」初回:後藤拓朗
「山形藝術界隈前史」第二回:大槌秀樹
「山形藝術界隈前史」第三回:根本裕子
「山形藝術界隈前史」第四回:久松知子
「山形藝術界隈前史」第五回:是恒さくら
「山形藝術界隈前史」第六回:白丸たくト

──まずは後藤さんからの視点で「山形藝術界隈」(以下:藝術界隈)を紹介いただけますか。

それぞれ独立した活動を行う出自もバラバラな作家たちが、一緒に展示活動をしている集団という感じでしょうか。それぞれに独立しつつも、お互いに影響を受けたり与えたりしながら、時には積極的に介入し誰の作品なのか判らないということもありつつ、展示空間もごちゃごちゃ入り乱れたり…。そういう関係性を楽しみながら活動しています。
内輪ノリっぽいことも否定せず、互助会的であることも否定せず、集団の活動理念が存在しないことも否定せず、ノリの合う仲間と楽しく活動しています。

──アーティストのグループというと何らかの理念なりマニフェストの元で活動するのが一般的かと思いますが、そういうノリではないのですね。

参加する作家たちがそれぞれの理念や思いを持って参加してはいるでしょうけど、それを他の作家に強要したりはしないですね。展示への参加も実は強制していません。基本となるメンバーは存在しながらも参加者は可変的です。簡単にいうと、これといった後ろ盾もなく自己資金を出し合いながら活動している一市民の芸術運動体という感じでしょうか。

──では本題に移って、後藤さんが藝術界隈に参加するまでの経緯を詳しく聞かせてもらえますでしょうか。後藤さんは山形出身で東北芸術工科大学(以下:芸工大)を卒業されてますが、まずはその辺りから伺いたいです。

私は2005年に芸工大を卒業してから、そのまま地元に残り少しずつ発表活動しながら生活していました。ちょうど当時の芸工大は変革期で、宮島達男さんが副学長に着任し、中山ダイスケさんも教授として招聘されるなど、それまでにはなかった現代美術への萌芽がありました。私はその頃に芸工大に着任したキュレーター(宮本武典さん)や、同世代の作家たち──ここにはその後、藝術界隈に参加する大槌秀樹さんや根本裕子さんもいました──と関わりながら、現代美術未開の地である山形で、どのような表現が可能なのかを模索していたという感じです。
また2008年には、市内の旧旅館をリノベーションしたシェアアパート「ミサワクラス」(以下:ミサワ)が出来ました。そこには建築家やデザイナー、美術家など十数名が暮らし、よなよなイベントや展示などが盛んに行われていました。私は住人ではありませんでしたが、展示に参加することが多々ありました。それらは主に、宮本武典さんのディレクションによる芸工大主催の企画イベントなり展覧会でした。

──宮本武典さんは今では山形ビエンナーレのプログラムディレクターとして知られた存在ですが、ミサワの企画運営にも携わっていたのですね。

宮本さんが手掛けるそれらの企画は、地域に眠っているモノやヒトといった資源を掘り起こしながら、土地の歴史や民俗学と接続しつつ、町のいたるところで同時展開したり鑑賞者を巻き込んだりするような、実験的かつ完成度の高いものでした。そのような現代美術未開の地ならではの冒険的な試みはとても刺激的で、私達の記憶に強烈に染み付いています。
ちなみに山形で芸術活動をしていると、もれなく「芸工大の人?」と聞かれます。そのくらい、いまや県民にとって美術・芸術=芸工大のイメージは定着したものになっていますが、その礎を築いた一人が宮本さんであることは間違いないでしょうね。

──ミサワの活動はその後どのように展開していったのでしょうか?

2011年3月の震災をきっかけにして、それまで現代美術の実験的な試みとして展開してきた大学主催の活動は終息し、地域社会との連携や地域貢献活動といった方向にシフトしていきました。ミサワも芸工大の手から離れていきました。それにより私も活動の場を失っていきました。大学に依存して作家ぶっていたということが明らかになり、制作にも熱が入らないまま、それから1、2年はくすぶった生活をしていました。

──震災をきっかけにして制作から離れてしまったのですね…。

震災後ろくに制作もしていなかったのですが、2012年に大量に作品が必要となるオファーがあり、それをきっかけに活動を再開しました。2013年には現在も借りている廃校利用の作業場を展示室として、「オープンスタジオ」と称した展覧会を開催することにしました。SNSでわずかに広報しただけでしたが、たくさんの方々に見ていただき、素晴らしいレビューもたくさん頂戴するなど、大変な成果でした。それ以降、そのオープンスタジオは現在まで毎年開催しています。
一方、芸工大では三瀬夏之介さん・鴻崎正武さんの「東北画は可能か?(2009年-)」(以下:東北画)と、宮本さんの「山形ビエンナーレ(2014年-)」(以下:ビエンナーレ)というプロジェクトが始まりました。以降、山形のアートシーンはこの芸工大主導の二大プロジェクトを主として展開することになります。私はそのどちらにも関わることも無く、オファーもなく、周囲の輝きを横目にグジュグジュに腐りながら、ウツウツに卑屈になりながら、ただひたすらオープンスタジオを開催していました。そんな中、2015年にSNSでミサワの活動が目に入ってきました。

──ミサワでどういう動きがあったのでしょう?

新しい写真家の住人(出口惣一さん)と、建築家の住人(工藤裕太さん)と、大槌秀樹さんの3人が、それぞれの部屋をギャラリーとしてオープンしたという話題でした。そこで見た大槌作品の良さといったら! 拡声器を持ってハアハアと吐息を無人の夜の街に響かせながら走るパフォーマンス映像、太平洋に向かって岩場でギターを掻き鳴らす映像、エモーショナルで感動したのを覚えています。
その展示の期間、朝までお話をするイベントがあり、そこで色々なことをみなさんと話しました。僕も一人で自分の作業場をギャラリー(オープンスタジオ)にしてたわけだから、山形で同じようなことをしてる奴らがいるということに興奮しました。それがきかっけで大槌さんのギャラリー(MOLE GALLERY)での展示に誘われるようになり、ミサワの住人たちとの交流が復活していったという感じです。

──その日を境にして、山形で心強い同士を得たという感じでしょうか?

その日以降、すごく頭が冴えて良いアイデアが浮かびました。とにかく、オファーを待って卑屈に過ごすのは終わりにしなければならない。もう勝手にやりたいようにやろうと。自分たちの理念を打ち立てて、自立独立した活動を展開しよう! その理念はこうです。山形の芸術文化は、東北画とビエンナーレに支配されている。県外から見たら余計に、その2つ以外は何も存在しないように見えるだろうと。それだけはまかりならん! 単なる異国情緒で東北を食い物にしている東北画と、価値観が共有できる仲間たちで幸せに暮らすユートピア思想、その実山形ゲーテッドコミュニティ化計画ともいえるビエンナーレは徹底的に批判し、日本の東北の山形という辺鄙な地方都市で暮らす僕らの生活と制作の、飾ることも美化することもない本当の姿を示していこう…と。

──ずいぶんと強烈なマニフェストですが…。

しかし、そのプランは仲間からは結局反故にされてしまいました。実は大槌さんがビエンナーレに誘われており、それは自身の活動の成果であると。そして内部から戦うことにする、ということでした。僕は本当に失望し、しょうがない、一人でそのプランを実現しようか…、なんて考えながら過ごすハメとなりました。
後の2016年2月、MOLE GALLERYでの「MOLE革命」展が迫っていました。失望しながらも、約束した展示には参加しなければならない訳です。僕は東北画とビエンナーレとの戦いの兵器として描き溜めていた渾身の絵画群をまとめて大放出しました。それは本当に革命的に、来場者に高く評価されました。
その夜は兵庫からミサワに移住してきたばかりの白丸たくトさんの部屋で、そこにいたみんなでめちゃくちゃミュージックセッションをして大はしゃぎでした。僕はずっと一人で活動してきたので、初めて仲間というものが出来た瞬間でした。それまでの卑屈さはすっかり浄化され、ただただ喜びの中にありました。

──そこから、白丸・大槌・後藤のセッションが始まるという感じですね。

その後、白丸・大槌・後藤の3人でミサワでの「night voice」展があり、そのメンバーでビエンナーレでのプロジェクト「アートの市・芸術界隈」(以下:市プロジェクト)に参加することになりました。結局のところ僕も内部から戦いを挑むトロイの木馬大作戦に打って出たということです。市プロジェクトは、三瀬夏之介さんがディレクターとして参画し、山形で活動するコレクティブやチームなどが、それぞれのブースで展示即売(=市)をするというものでした。
トロイ大作戦を決行するという硬い意志に満たされていた僕は、このクラフト市崩れみたいな甘ったるい雰囲気をなんとかしなければいけない! という使命感に燃えていました。大槌さんがこしらえた単管パイプの特製ステージの下に、路上生活者のダンボール小屋を模した、かつ内壁を白く塗装しホワイトキューブにしたギャラリー「MOLE GALLERY」を作り作品展示を行なっていました。そんな活動を面白がってか、隣のブースにいた久松知子さんが我々の特製ステージでラジオをやりだし、その後ミサワに移住することになりました。

──ようやく藝術界隈への輪郭が見えてきました。

そうして集った後藤、大槌、白丸、久松の4人で、ついに「山形藝術界隈展〇一」が開催されることになりました。僕個人の、東北画とビエンナーレを仮想敵とした当時の勝手な個人的理念は、こうして回り道の末に実行することが出来たといえます。

──その強烈なマニフェストは後藤さんの中では、まだ生きているのでしょうか?

もう「山形」という閉じた世界以上に視野が拡大されてしまった現在では、また別の理念が必要なのかとも思っています。いずれにしても、僕がやることは変わらず、日本の東北の山形という辺鄙な地方都市で暮らす僕らの生活と制作の、飾ることも美化することもない本当の姿を示していこうということです。
それは東北ネタとかこじんまりとしたものではなく、世界中と響き合う普遍的な表現の希求であり、その最もまっとうな手段なのだということを改めて表明しておきたいと思います。

──ありがとうございました。

「山形藝術界隈前史」初回:後藤拓朗
「山形藝術界隈前史」第二回:大槌秀樹
「山形藝術界隈前史」第三回:根本裕子
「山形藝術界隈前史」第四回:久松知子
「山形藝術界隈前史」第五回:是恒さくら

プレスリリース 20180316

山形藝術界隈展〇五/〇五・五
年間山形藝術界隈展(石巻のキワマリ荘 プロジェクト)のご案内

本展覧会は、有馬かおるが企画するキャラリー「GALVANIZE gallery」(石巻のキワマリ荘 1F)にて、山形藝術界隈が1年間を通して企画・展示を行なうプロジェクトの初回〜第二回展示となります。(初回の「〇五展」の展示作品の一部を入れ替えし、「〇五・五展」として期間を延長して展示を行ないます)

※プレスリリースPDF
http://geijyutsukaiwai.org/download/gkw_pressrelease_20180316.pdf

※山形藝術界隈展〇五/〇五・五チラシPDF
http://geijyutsukaiwai.org/download/gkw_05-055_leaf.pdf

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●展覧会概要

展覧会名: 山形藝術界隈展〇五/〇五・五
会期: [〇五]2018年2月9日(金)〜3月18日(日) [〇五・五]2018年3月23日(金)〜4月22日(日)
会場: GALVANIZE gallery(石巻のキワマリ荘 1F [宮城県石巻市中央2-4-3])
開場日時: 会期内の毎週金・土・日曜/11:00〜18:00 (※会期中の開場日時は変更する可能性がございます)
入場料: 無料
出品作家: 大槌秀樹、後藤拓朗、根本裕子、久松知子
主催: 山形藝術界隈
協力: 有馬かおる(GALVANIZE gallery)
後援: yukiaisaime、山形藝術界隈友の会
企画: 山形藝術界隈、halken LLP

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プレスリリース 20180201

山形藝術界隈展〇五
年間山形藝術界隈展(石巻のキワマリ荘 プロジェクト)のご案内

本展覧会は、有馬かおるが企画するキャラリー「GALVANIZE gallery」(石巻のキワマリ荘 1F)にて、山形藝術界隈が1年間を通して企画・展示を行なうプロジェクトの初回展示となります。

※プレスリリースPDF
http://geijyutsukaiwai.org/download/gkw_pressrelease_20180201.pdf

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●展覧会概要

展覧会名: 山形藝術界隈展〇五
会期: 2018年2月9日(金)~4月1日(日)
会場: GALVANIZE gallery(石巻のキワマリ荘 1F[ 宮城県石巻市中央2-4-3])
開場日時: 会期内の毎週金・土・日曜/11:00~18:00 (※会期中の開場日時は変更する可能性がございます)
入場料: 無料
主催: 山形藝術界隈
協力: 有馬かおる(GALVANIZE gallery)
後援: yukiaisaime、山形藝術界隈友の会
企画: 山形藝術界隈、halken LLP

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●山形藝術界隈と有馬かおる

山形藝術界隈(2016-)は、山形ビエンナーレ 2016 期間中に開催されたアートの市「芸術界隈」(ディレクター・三瀬夏之介)から派生した芸術運動体です。絵画・音楽・パフォーマンス等それぞれの表現活動を行なうメンバーが集まり、既存の枠組みに捕われない新たな作品制作・発表のあり方を模索する実験的な活動を行なってきました。昨年(2017年)は、山形・ミサワクラス、山形・白鷹町文化交流センター、東京・新宿伊勢丹(ISETANニューアーティスト・ディスプレイ)、山形・鶴岡アートフォーラム(東北画は可能か?/三瀬夏之介個展 関連企画)での各種展示を行ないました。

REBORN ART FESTIVAL 2017(以下:RAF2017)参加アーティストの有馬かおる(1969-)は、RAF2017終了後も石巻に残り多目的スペース「石巻のキワマリ荘」を運営しています。有馬は過去にも「犬山のキワマリ荘」(愛知・1996-)、「水戸のキワマリ荘」(茨城・2007-)の立ち上げ・運営に携わり、地方におけるアーティストの自立システムの構築をいち早く実践してきた人物でもあります。

2018年2月から1年間の予定で実施される本プロジェクトは、地方都市・山形におけるアーティストの自立の可能性を問う実践(アートの市「芸術界隈」)から派生した運動体である山形藝術界隈と、地方におけるアーティスト自立システム構築の実践者である有馬との必然的な出会いから生まれたものとも言えます。

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●山形藝術界隈友の会

本プロジェクトをきっかけにして、「山形藝術界隈友の会」を発足します。これは、地方都市におけるアーティストの自立可能性を「経済」の側面から試みる新たな実践です。アーティストが自立するために必要な経済活動(=金銭による報酬を得ること)を「壺」というシンボルを使い可視化するこの試みは、「ファンディング」の仕組みを取り入れた極めて具体的な取り組みです。

壺は元来、食糧の貯蔵や水や酒などの飲料の運搬に使われる道具ですが、装飾品とすることを目的として作られる場合も多く、古くから美術作品としても親しまれてきました。一方で、霊感商法など実態価値のないシンボルとしても壺は良く知られた存在でもありますが、芸術・美術そのものも様々な状況下においては、実態価値のないものとして認識されることも多々あります。

このような価値の揺らぎが激しい芸術・美術のフィールドにおいて、そしてその理解者が絶対的に乏しい地方では、どのような経済活動(=アーティストの自立)が実践できるのでしょうか。「ファンディング」という具体的な経済システムの仕組みを取り入れながら、地方におけるアーティストの自立について、展覧会と平行して考察していきます。

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●プロジェクト参加作家(2018年1月現在) ※★印の作家は「山形芸術界隈展〇五」に参加

大槌秀樹/おおづち・ひでき ★
1981年 千葉県生まれ。東北芸術工科大学大学院修士課程実験芸術領域修了。大学院修了後、廃旅館をリノベーションしたオルタナティブ・シェアアパート「ミサワクラス」で、同世代のアーティスト・写真家・音楽家・建築士等と共同生活を開始。身体と物質、記憶と場、事実と虚構などに着目し、行為から生まれる事象を映像や写真、パフォーマンスなどで表現している。現在は空洞化した中心市街地の〈廃墟〉、深夜の〈駐車場〉や〈公衆電話〉、身近な山に存在する〈消滅集落〉や〈廃村〉を舞台に、時間帯による境界線や物理的な境界線上(エアポケット)での行為の記録や、実在する無人の風景を目の前に、様々な情報や要素を渾然一体として扱った制作活動を行う。

後藤拓朗/ごとう・たくろう ★
1982年 山形市生まれ。東北芸術工科大学美術科洋画コースを卒業後、美術非常勤講師として勤務する傍ら、山形県白鷹町のアトリエにて作品を制作。オープンアトリエを中心に発表活動を行う。マスメディアやインターネットを通じて得られる情報と身辺の生活風景との結びつきを探り郷土画として表現した油彩作品などを制作している。

根本裕子/ねもと・ゆうこ ★
1984年 福島県生まれ。陶芸家。東北芸術工科大学大学院修士課程陶芸領域修了。在学中より和太守卑良氏に影響を受ける。手びねりによって制作される作品の多くは動物の形を借りた架空の生き物で、時間の痕跡となるシミ、皺、たるみを陶土に刻み焼成される。その他、お守りと称した作品制作や、「SANZOKU」名義でオブジェ的な食器を展開している。主な個展として「─陶 幻想のいきもの─」(INAXギャラリー・東京/2010年)、「どこまでいっても物体」(TOKIO OUT of PLACE・東京/2017年)、「N.E.blood 21 根本裕子展」(リアス・アーク美術館・宮城/2017年)など。現在、福島県の自宅で作陶。

是恒さくら/これつね・さくら
1986年 広島県生まれ。美術家。アラスカや東北で先住民、捕鯨文化、漁労文化等のフィールドワークを行い、造形やリトルプレスを通して異文化間の価値共有の可能性を探っている。2010年 アラスカ州立大学フェアバンクス校卒業。2017年 東北芸術工科大学大学院修士課程地域デザイン研究領域修了。個展に「沖語り ―オキガタリ―」(Open Letter・東京/2017年)、グループ展に「新・今日の作家展2017 キオクのかたち/キロクのかたち」(横浜市民ギャラリー・神奈川/2017年)など。

久松知子/ひさまつ・ともこ ★
1991年 三重県生まれ。画家。現在、東北芸術工科大学大学院博士課程在学中。日本の近現代美術の歴史・制度、言説などを題材にした絵画を中心に制作している。2015年 第7回絹谷幸二賞奨励賞、第18回岡本太郎現代芸術賞岡本敏子賞受賞。2018年 大原美術館によるアーティストのレジデンスプログラム「ARKO2018」に招聘決定。

白丸たくト/しろまる・たくと
1992年 兵庫県生まれ。2014年に自主レーベル“TRIP CHILDS RECORDINGS”を設立と共に活動開始、現在までにカセットテープ3本、CDR1枚をリリース。「2015年にLOS APSON?がビビビっ!ときた作品の年間50選チャート!!!!!!!!!!!!!!!」で初期ローファイ作品2本が40位に選出される。2016年より関西から山形に拠点を移し、数々のライブ企画の立ち上げや山形藝術界隈展への参加など、活動の幅を広げてゆく。また同年、詩人の詩に曲を付けるというスタイルで弾き語りを開始。2018年に初の弾き語りアルバム「つぶらなりけりかのひとみ」をリリース。現在は茨城県水戸市を拠点に活動中。あらゆる環境に身を置きながら、アートと音楽、ことばとノイズ、生活と創造のボーダーをゆるやかに越えうる表現を日々追求している。

工藤玲那/くどう・れな
1994年 宮城県生まれ。東北芸術工科大学美術科洋画コース卒業。自分を含めた人の環境への反応と情緒に興味があり、特に異なるカルチャー同士が出会ったときに起こるかもしれない超爆発を希求。様々なメディアで作品を展開している。個展に「anima」(POST Gallery 4GATS・東京/2017)など。

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●山形藝術界隈に関する情報・お問い合わせ

本プロジェクトおよび展覧会、「山形藝術界隈」「山形藝術界隈友の会」に関する詳しい情報は、山形藝術界隈のFacebookページ、twitter、ブログなどをご確認ください。また、ご質問やお問い合わせはプレス担当:halken LLP(ハルケン)までご連絡ください。

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※プレスリリースPDF
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